林檎

「りんごもらった」
 ランドセルを背負ったままの弟が差し出した。エプロン姿の俺が受け取る。ツルが太くみずみずしい、美味そうなりんごだった。
 同年代の子どもと比べて長い手足を持つヤツが、台所に立つ俺の手元をのぞき込む。まな板の上の具材から夕飯のメニューを推測したようだった。「ナイスタイミングだね」ほんとにな。
 そう、今日の夕飯はカレーだ。りんごはすりおろして隠し味として加える。「果物を飯に入れるな」と親父は嫌がるけれど、正直知ったこっちゃない。俺は酢豚にもパイナップル派だ。
 弟はランドセルを床に放り、冷蔵庫から牛乳を出した。ヤツが幼稚園生のときから使っている何とかレンジャーの絵がついたプラスチックのコップを渡してやると、一瞬不満そうな顔を見せる。お前のだろ。そうだけど。しぶしぶといった様子で受け取った。
 ダイニングのテーブルに件のコップ置いて、牛乳を注ぐ。そのままごくりとやりだしたもんだから、行儀が悪い。座って飲め、とたしなめた。また嫌な顔をされるかと思ったけれど、これには素直に従って備え付けのチェアに腰かけていた。
「そういや、このりんご誰にもらったわけ」
「わかんない。たぶんしらないひと」
「……はあ? これ、知らないやつからもらったりんごなわけ?」
「そうだけど」
 そうだけどってお前……、言葉を無くす俺に弟はひょうひょうとした態度を崩さない。それが何か? と言わんばかりの顔だ。
「お前、知らない人間から物もらっちゃいけないって学校で言われてないわけ?」
「言われたことない。兄ちゃんはあるの?」
 自分の小学生時代を思い返してみる。確かに学校で言われた覚えはなかった。黙りこむ俺の姿を前に弟は「兄ちゃんもないんじゃん」と少し得意げだ。学校で言われてなくても常識だろうが!と言ってやりたかったが、やめた。
『知らない人からものをもらってはいけません』
 ぴしゃり。心地よいソプラノが、絶対譲らないというふうに言う。弟は覚えていないだろう。そう言ったのは今は亡き母だった。

「ねえ、りんご入れないの」
 調理が進む中、りんごに手を付けようとしない俺に見かねて弟が口を出してくる。
「……知らない人間からもらったものなんて食えるかよ。何が入ってるかわかんないだろ」
「何が入ってるかってりんごしかないでしょ。りんごなんだからりんごがつまってるんだよ」
「ばかか、そういうことじゃない。……毒が入ってるかもしれないだろ」
「切ってみればいいじゃん。毒が入ってるならきっとそこだけ色が変わってるよ」
「じゃあ、爆弾かもしれないだろ。爆弾だったら切った瞬間爆発して死ぬぞ。お前も、俺も」
 カレーのルーを鍋に落とす。お玉を探して流しに目をやると、シンクの上のりんごをわし掴んでいる弟と目が合った。ヤツはそのまま足早にリビングを横切っていく。
がらっと乱暴に窓を開け、サンダルを蹴飛ばして靴下のままベランダへ降り立った弟は、弟の皮を被った違う人間のようだった。そしてそいつは俺に挑むような目を向けて、躊躇なくりんごに噛みついた。
 
  しゃくり、
 もちろん何も起こらなかった。

「爆弾じゃなかった」
 窓の桟を越えて帰ってきたヤツは俺の知っている弟に戻っていた。齧りかけのりんごを隠すようにしてリビングのソファに座り、テレビをつける。二人だけの家にむなしくニュースの音が響く。
 俺は小さく息を吐き、普段ニュースなんて見ない弟のもとへ行って、背後からりんごを取り上げた。そして、身体をこわばらせる見知った小さな頭に手を乗せて言う。
「……知らない人からものをもらってはいけません。あと、ひとりで爆発してもいけません」
 弟はテレビから視線を動かさないまま、しかしはっきりと頷いた。

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