月を浮かべて夜をこぼす

 月がこぼれそうな夜だった。なみなみと注がれた闇とともにあふれそうだった。
 ぼくは明日提出の課題に取り組みながらもゆるくまどろんでいた。そんなとき、ことりと窓の方から音がしたのだ。
「ねえさん?」
 ぼくは振り向いた。誰もいない。ただ、空気が動く気配を感じた。
「ねえさん」
 しぃん、と冷えた空気が返事をした。
 姉は突拍子のないふるまいでよくぼくを驚かせた。ぼくは姉がいつどこから出てきても驚かないように警戒しながらあたりを見回した。すると、小瓶が倒れて床に落ちているのに気づいた。拾ってまじまじと見つめてみる。透明な硝子瓶にコルクで栓がしてある。中身はからっぽに見えた。するすると表面を撫でてやる。分厚い硝子のつるりとした感触がここちよい。顔を近づけると潮の香りがした。
 ねえさんは、うつくしいひとだった。
 いつだってぼくは彼女が温度を持っていることが不思議でならなかった。特に、うだるような暑さの夏の日は、彼女が融けてしまうのではないかとひやひやした。一度、そんな思いをねえさんに打ち明けたことがある。彼女は『あら、それおもしろいわね。今ここで融けてみせましょうか』とほほえんだ。ぼくは恐怖でわんわんと泣いて、たいそう姉を楽しませた。
 何度かの夏を繰り返すうちに、ぼくは姉が融けたりしないことに気づいた。姉はつまらなそうだった。
『私ね、月を捕まえに行くわ』
「はぁ?」
 久しぶりにきいた姉のおかしな言葉にぼくは露骨にいやな顔をした。ねえさん、もういくつだっけ? ぼくもこどもじゃないんだよ。
『あら、信じてないわね。見てなさい。この小瓶にね、夜ごと月を詰めてくるわ。あふれちゃったらね、ちょっとだけ夜をこぼすの。月がいっしょに出てしまわないようにそうっとよ』
 ぼくは疲れていた。いってらっしゃい、楽しみにしてるよ。そう声をかけた。姉はたいそう満足そうだった。
 その日、姉は帰ってこなかった。次の日もまた次の日も。
 8日後、姉は見つかった。夜の海で魚の餌となってぷかりぷかりと浮いていたそうだ。
 ぼくは久しぶりにわんわん泣いた。姉が楽しんでいたかどうかはわからない。
 ベッドに座り外を眺める。星は出ていない。真っ暗な空にぷかりと月が浮かんでいた。そのまま小瓶を掲げてみると、月がすっぽりと入る。
 なんだ、簡単じゃないか。
 夜の闇の中でじわじわと月がぼやけていった。そんなぼくのすがたに、姉が喜んでいるような気がした。

 

2016.11.01

Twitterのタグ『♯フォロワーさんにリプでもらった要素を全部入れて小説を書く』でいただいた『硝子瓶』『月』で掌編です。

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